する労働力の供給基地の役割を担っていることに他ならないが、現実には低所得層、貧困層を抱えているわけである。
1960年代から70年代にかけて、アセアンの各国では共通して農業分野で自作農化を進め農業のシェアの高かったインドネシア、フィリピンなどでは自作農比率が10年間で10%ポイント前後も高まり、タイでも同じ傾向がみられた。非農業発展の期待が必ずしも大きくない当時としては、農業の支援は重要政策課題であった。しかし経営規模の拡大にはみるべきものがなく、当時増加しつつあった外資導入も対象は専ら製造業であり、農業の効率化につながる条件に乏しかった。結果として、農家の非農所得依存度が高く、貧困者比率もマレーシアの計画資料によれば都市地域に対して農村地域では3倍にも達するような状態がつづいている。工業化で、農業分野の過剰労働力の程度が次第に緩和されても、農工間の均衡は実現されるには遠かったのである。
4 産業構造変化への貿易の影響
産業構造の工業化が急速に進展したことに関しては貿易の役割に注目しなければならない。輸出の工業化率は1970年においてはマレーシアの2%を例外としてアセアン各国は零であった。ところが92年になるとマレーシア38%をはじめフィリピン、タイもそれぞれ20%前後となってアジアNIEsを追上げるようになった。1970年はいうまでもなく1980年においても、なおアセアン各国の輸出構造における第1次産業の比率はインドネシアの94%をはじめ70%前後と高く、資源輸出的性格を強くもっていたのである。(第6表参照)
こうした産業構造、輸出構造を大きく変えることになった要因としては、日本をはじめとする先進諸国が、世界貿易戦略の中にアセアン諸国の工業化を位置づけたからに他ならない。1970年代当初においては世界最大市場であるアメリカ貿易に占めるアジア諸国の比率は20%を下回り、貿易収支は赤字であった。1980年に対米輸出シェアは23%、82年には47%と急速に伸びはじめたのである。
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